saison de karo 40

露の夜を留守番電話まかせかな 辻美奈子


夜露1



僕が学生の頃に住んでいたアパートでは誰も電話なんて持ってはいなかった。消しゴムひとつ持っていたかどうかだってあやしいものだ。管理人室の前に近くの小学校から払い下げられた低い机があり、その上にピンク電話がひとつ置かれていた。そしてそれがアパートの中に存在する唯一の電話だった。


電話2


管理人が管理人室にいたためしがなかったので、電話のベルがなるたびに住人の誰かが受話器を取り、相手を呼びにいった。もちろん気が向かない時には(とくに夜中の二時なんて)誰も電話には出ない。

真夜中の電話はいつも暗い電話だった。誰かが受話器を取り、そして小声で話し始める。


もうその話はよそう・・・違うよ、そうじゃない・・・でもどうしようもないんだ、そうだろう?・・嘘じゃないさ。何故噓なんてつく?・・・いや、ただ疲れたんだ・・もちろん悪いとは思うよ・・・だからね・・わかった、わかったから少し考えさせてくれないか?・・電話じゃうまく言えないんだ・・・・

誰もがめいっぱいのトラブルを抱え込んでいるようだった。トラブルは雨のように空から降ってきたし、僕たちは夢中になってそれらを拾い集めてポケットにつめこんだりもしていた。何故そんなことをしたのか今でもわからない。何か別のものと間違えていたのだろう。

階段5


僕は一階の管理人室の隣の部屋に住み、その髪の長い少女はニ階の階段の脇に住んでいた。電話のかかってくる回数では彼女はアパート内のチャンピオンだった。僕はつるつるとすべる十五階の階段を何千回となく往復する羽目になった。

少女1

まったく実に様々な電話が彼女にかかってきた。丁重な声があり、事務的な声があり、悲しげな声があり、傲慢な声があった。そしてそれぞれの声が僕にむかって彼女の名を告げた。彼女の名前はすっかり忘れてしまった。哀しいほど平凡な名前、としか覚えていない。
彼女はいつも受話器にむかって低い、疲れ切った声でしゃべった。殆ど聞き取れないほどボソボソとした声だった。

電話3

僕が受話器を取って階段を上り、彼女のドアをノックして電話ですよ、と叫ぶと、少し間をおいてどうも、と彼女が言った。
どうも、という以外の言葉を聞いたことがない。
もっとも、僕にしたところで電話ですよ、という以外の言葉を言ったこともない。

             村上春樹『1973年のピンボール』


夜露4





   


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