中村遠望 少女たち2 
       
        少女はから覚めるのか
  松下カロ


デルフト幻想


ふたりの少女がいます。ひとりは、

  現つなの少女ただ居て怖ろしき 『水妖詞館』

 中村苑子の最初の句集に現れた少女です。彼女は季語を纏わず、ただそこに立っています。『水妖詞館』には季語を伴わない句が目立ちます。
 もうひとりの少女は、『少女たち1 少女は白鳥をなぶるのか』で語った、最後の句集に登場する少女。

  白鳥を少女がなぶる涼しさよ 『花隠れ』

 「現つな」の少女と「白鳥」の少女、最初と最後の句集の間には20年以上の歳月があります。この間、苑子俳句に少女の句は皆無ではありませんが、決して多くはありません。
 発端と終末に登場するふたりの少女は、どう違うのでしょうか、それとも同じ少女なのでしょうか。

  現つなの少女ただ居て怖ろしき

 処女句集の重要なキャラクターとして、少女は忽然と現れます。最後の句集『花隠れ』の少女の句では、季語 ( 白鳥、涼し ) やアイテムに前述のような込み入った設定がされていましたが、『水妖詞館』の少女は潔く何も持たず、語らず。「現つなの」という異色の言葉を前に立て、句は「少女は怖ろしい・・。」と言い切っているばかり。
 「現つな」。この耳慣れない言葉にアプローチしなくては、句を語れません。「現つな」の意味を洗い出したいと思います。
 「現」は普通一文字で「うつつ」と読みますが、関係の深い語の「現し」( うつし この世に存在する )、「現せみ」( うつせみ この世に生きているひと )など「うつ」と読むこともあります。「映る」、「移す」、「写す」なども同根です。ここでは「現」=「現つ」=「うつつ」として、「現つな」は「うつつな」と読むものと考えます。
 では「現つな」とは一体どのような意味を持った言葉なのでしょうか。
 結論から先に言えば「現つなの」という上五の本当の解釈( というものがあれば、ですが、 )に、私は今もって到達していません。一般的な古語辞典には、適用がないのです。周辺の類似語に頼るほかありませんでした。
 ここでは、解らないことは解らないこととして、句の実相に近づくことを念頭に置いて「現つな」を分解してみます。
助詞「の」で受けている以上、「現つな」は体言 ( 名詞形 )として扱われているということです。可能性として、
 ①「現つ」に上代の格助詞「な」 ( 現代語の「の」)が付いたもの。
 ②「現つ」に、上代によく使われた人を表す接尾語「な」が付いて名詞の体裁になったもの。
 ③「現 ( つ )なし」という形容詞の「なし」( 無し )の語幹「な」だけが残って「現つな」となったもの
 ①と③はそのままでは名詞形になりませんから、後に「こと」、または「もの」及びつなぎの助詞が省略されていると考えた方が良いかもしれません。②はそのままで名詞形ですから、素直に考えれば、②の可能性が高いでしょうか。

 面白くもない文法解釈を試みたのは、いずれの解釈を取るかで、意味が変わってくるからです。
 ①と②では最初にあった言葉は「現」( 現つ ) です。辞書では「現」は
 A・・・目が覚めている状態、正気、生きている状態
 B・・・夢か現実か解らない状態、夢見心地
 このように、「現」には正反対のふたつの意味があります。
 ③「現無し」は、「正気を失っている、夢見心地だ」という内容の形容詞。Bと似ています。
もともとはAの意味「覚醒していること」であった言葉「現」 ( 現つ )は、中世、特に古今集以後、「夢うつつ」の形で多用されたため、「うつつ」自体も「夢心地」として使われるにいたった、ということのようです。
 少女の句の「現つなの」は①、②、③、どの文法解釈にあてはまるのでしょうか。結論を導き出す決め手を持ちません。
 「現つ」の意味をAと取るか、Bと取るかで「現つなの少女」の本質は違ってきます。おそらく次のふたつのどちらか、ということになりましょう。
 「今ここに居る」、「そのままの」、「生のままの」少女という意味。
 「夢見心地の」、「正気ではない」、「忘我の」少女という意味。
 苑子俳句を読んでいると再三出会う、単純明快な意味付けを拒む表現にまた突き当たったようです。作者自身、この「現つな」という裏のある言葉を表とも裏ともはっきりさせないまま、はっきりさせないことを楽しんで使っているのかもしれません。そうであれば、「現つなの少女」とは、今、現実に居ながら、自分自身が何かをまだ知らない、夢から覚めきらない少女、ということになるでしょうか。

 「現つな」が使われている苑子句は他にもあります。

  現つなや花も名残りの甲斐の空 『吟遊』
 
 この「現つな」も少女の句の「現つな」へのひとつの手懸りとなってくれるでしょう。ここでも「現つな」以下は単純な中七下五となっており、「現つな」には、「存在すること、その切なさと儚さ」といった内容が、託されているようです。
あるいは、あまり知られていない「現つな」という言葉があるのかもしれません。古典にも知識豊かであった俳人が古書の中で効果的に使われていた「現つな」を見付け、気に入って使ったのかも、と空想を巡らしているのですが・・・。

 いずれにしてもこの魅力に富んで多機能 ( ? ) な言葉「現つな」を得て、少女は俄然輝きはじめます。
ほっそりと、しかし傲然と立っている少女。薄い笑みを浮かべ、今にも何か「怖ろしい」ことを喋りそう。しかし黙ってじっと動かずに、「ただ居る」少女は本当に怖ろしい・・・。

麗子象

 岸田劉生の名作『麗子像』が思い浮かびます。劉生は大正末期から昭和初期にかけて洋画界を席捲した夭折の巨人です。愛娘麗子の成長に沿って描かれた油彩画、デッサンの数々。16世紀ドイツの画家デューラーから、また寛永年間の初期浮世絵からも影響を受けた独特の生命感を宿すその描写。麗子の光る黒髪、何を考えているのか解らないアルカイックな表情、画面の外へ斜めに向けられた視線。
 とはいえ、鑑賞とは難しいものです。白紙の状態で、何の看板もかけずに「現つな」の句を読んだとしたら、麗子像を想起する前に、「もっと周りを良く見たら・・・。」などと、言いたくなったかもしれないのです。『水妖詞館』の一句として見るからこそ、季語も、装飾もないこの句に納得している面も無いとは言えません。読む側の姿勢が問われます。言い換えれば、「現つな」は、それほど思い切った冒険をして詠まれた句です。拙いと批評される可能性も充分あります。それを堂々と、キャリアの集大成である句集に放り込む勇気はどうでしょう。

 あらためて二句を並べてみます。
現つなの少女ただ居て怖ろしき 『水妖詞館』 1975年刊
 白鳥を少女がなぶる涼しさよ 『花隠れ』 1996年刊
 少女たちはどちらも句の中七の先頭、同じ位置に置かれています。ひとりは怖ろしく、またひとりは涼しく・・・。しかし二句の構造は随分違っています。「現つな」の句は「AはBである。」という単純な形態。一方「白鳥」の句では、目的語「白鳥を」を敢えて上五に出す、という意識的な組み立て。
 「現つな」の句では季語も小道具も思い切りよく棄てられ、「ただ居て」も、「怖ろしき」も、真っ直ぐ「少女」へと収斂して行きます。この贅沢な品詞の使い方は、「少女」にスポットライトをあてることのみを目的としたからでしょうか。「ただ居る」からは、「ただありなり」という形容動詞との近似も伺われます。「ただありなり」は、つくろわない、自然のままであるという意味で、主に中古以降使われてきた言葉です。少女以外の事物は登場せず、背景がはっきりしないせいでしょうか、「現つな」の少女像には時代を超越した気配があります。彼女は万葉集の世界の無垢な「常処女」 ( とこおとめ ) でもあり、劉生の麗子でもあり、現代の繁華街を闊歩するローティーンでもあるようです。どんな少女でもあるようで、どこにもいない少女のような気もします。
 「白鳥」の句では、少女の特性を表出するため、白鳥、涼しのふたつの季語、「なぶる」という激しい言葉が使われ、さながらゴブラン織りのようにその糸を絡め合います。織り出されるのは美貌で冷酷な少女。


キスリング


 現つなの少女は何もしていませんが怖ろしい。
 白鳥の少女はむごい、罪なことをしていますが涼しい。

 大人になりきらない微妙な年齢の少女を詠った句として思い出されるのは、

  きらめく時雨少女笑へば塔ひびき 加藤楸邨

です。
 雨の中、少女は声をあげて笑っています。奥深い、静かな声は、塔の高い天井に共鳴し、いつまでも残っている余韻。その声は何かこの世ならぬもののようです。きらめく、ひびき、の「イ音」が高音声を思わせ、非日常的でありながら、あくまで端正な句の造り。時雨を降らせ、塔の中に人々を足止めにしたのは、他ならぬ少女の笑い声であったのか、時雨はいつまで降り続くのか・・・。
 少女の「人間離れ」した感じを追求している点では、「現つな」の句とも「白鳥」の句とも似ています。しかし決定的に違うのは、楸邨句の少女は神秘的ではありますが、怖ろしくもむごくもないということです。季語「時雨」が効果的に使われ、少女期のうつろいやすさを詠い留めて見事ですが、少女はあくまで客観視され、作者は少女と共にいっとき塔の中に降りこめられたことを、至福の時間と感じているようです。節度があります。当然のことながら、男性 ( それも分別のある男性と言うべきか・・・。 ) によって把握された少女像であると言えるでしょう。
 苑子句は女性の句です。少女を内側から捉え、女性としての自分自身の怖ろしさ、むごさと一致させた句です。女性なら誰でも少女期に、愛するものをなぶった ( なぶりたい、と思った ) 経験がある筈です。同じ題材で詠んでも表情は違います。そして、どちらも魅力的です。

 最後にもう一度、ふたりの少女を向き合わせてみましょう。
 「現つな」の少女は「白鳥」の少女よりも幼いようです。まだ自意識をもたない、「現つな」の通りに夢見がち。何をしたら良いのか、何をしたいのかも解らない。それだけにその存在自体が怖い。
 一方「白鳥」の少女は自分のやることを良く知っています。自分がうつくしいことも、自分が見られていることも。ふたりのいちばんの違いはそれです。知っているか、知らないか。ひょっとすると、これはひとりの少女の、「知る前」と、「知った後」の姿でしょうか。
 それでは、知るとは何でしょう。夢から覚めることかもしれません。
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