中村遠望 少女たち1 

          少女はをなぶるのか
  松下カロ
 


    スワン




     白鳥を少女がなぶる涼しさよ       『花隠れ』

 白鳥は千里を飛んで毎年同じ湖へやって来ます。大切な約束を守るように・・・。

 灰色の空を切り、一瞬羽根を静止させる姿。潔い滑空。ヤマトタケルからサワンまで、私達日本人が白鳥に寄せる気持には一種独特のものがあるようです。英雄に模し、愛情の対象に模し、穢れ無い物の象徴とし・・・。
 そんな犯しがたいイメージの白鳥を、少女はなぶるのです。「なぶる」。漢字で書くと「嬲る」。些かあやうい言葉です。具体的にはどうするのでしょう。手で弄ぶのか、言葉で侮るのか、解りません。中村苑子はこのような「不透明な動詞の使い方」を好む傾向があるようです。例えば、

  父よ父よとうすばかげろふ来て激(たぎ)つ

の「激(たぎ)つ」、

  いまも未熟に父母きそふ繭の中    『水妖詞館』

の「きそふ」など。

 白鳥は冬の季語です。しかし句集『花隠れ』の中で、この句は夏のページに収められています。作者は夏の季語「涼し」を採用しているということです。確かに夏場も、濠端や公園の池で白鳥を見かけることがあります。ここに登場する白鳥は、鏡のような冬の湖に自ら冷え冷えと浮かんでいる白鳥ではなく、眩しい真夏の水辺に羽根をたたむ白鳥なのです。「涼し」を「目元が涼しい」というような使い方、季節とは離れた意味に受け取ることもできますが、夏の章に入れられている以上、作者はこれを夏の句と設定していると考えるのが妥当でしょう。
 しかしそれだけでは測れない綿密な仕掛けが潜んでいるように思われます。
 中村苑子は季語に対して驚くほど自由な考えを持っていました。季語を御守りのように懐にしまって置くのではなく、取り出し、中を検め、最後には季語をして、苑子俳句にあらんかぎりの奉仕をさせました。季語以外の、また季語以上の意味を季語に背負わせることも珍しくありませんでした。


肩ひも


 「私は、無季を提唱しているわけでも、有季をかたくなに遵奉しているわけでもない。内容如何で自由にしているが、 中略 あらかじめ季を念頭に置いたり、あとで適当に付けたりするようなことは一切やらない。」 ( 『俳句・背景⑧ 私の風景』 蝸牛社 1997年 7月 )

 季語に関して持っていたカードを、全部見せてくれた文章とは到底思えませんが、納得のいく一句を成すためには、ルールなし、という気構えは伝わってきます。
 冬の季語白鳥を夏に嵌め込んだのも、単に「偶々夏季に白鳥と少女を目にした。」だけのことでしょうか。事実はどうであれ、俳人は意図的に「季語の倒置」 ( ? ) を行っているのではないでしょうか。
 ふたつの ( しかも正反対の季節の ) 季語を一句に入れるのは、リスクを伴うことです。ほかの大方の言葉は棄てねばなりません。一歩間違えば大失敗、という綱渡りのような細心さと度胸がなければ成功は覚束ないでしょう。季語の「二物衝撃」とも言える効果を俳人が知っていたからこその仕業なのでしょう。

 ここには、まず「少女と白鳥」という清明な印象の言葉と、対立する危険な言葉「なぶる」の二極性が提示されています。はっとします。しかし、それだけに終わりません。

 白鳥、少女 ( 普通名詞 )
 なぶる ( 動詞 )
 涼しさ ( 形容詞『涼し』に状態を表す接尾語『さ』が付いたもの )

 句はこの四語から成り立っています。そして四語はそれぞれ他の三語と複雑に絡み合っているのです。
なぶる「少女」となぶられる「白鳥」は「加害者」と「被害者」の緊張関係にありますが、同時に従来は「無垢の象徴」と見なされてきた少女と白鳥の同一性も併せ持っています。
 また「少女」は白鳥を「なぶって」いながら、彼女自身は「涼しい」存在である、という二面性・・・・。「少女」という単語は明暗両方の修飾にさらされて、立体のように影を引く存在として迫ってくるようです。
 「冬の季語白鳥と夏の季語涼しを一句に置く」ことも、言葉の多面的な関係を作り上げるための作意の一環であったのではないか、と推察されます。
 異なる季に属しながらも、「白鳥」と「涼し」は「白鳥」の透明感を「涼しさ」で言い当てている、という協調の間柄でもあるからです。季節を越えたステージの上でお互いを照らし合うふたつの言葉、季語にはあらゆる可能性があり、それは伝統と矛盾しません。
 さらに、

      白鳥←清らか、協調の関係→涼し
           肯定的世界
             ↓
             少女
          緊張 ⇔ 関係
             なぶる
             ↑
           否定的世界
      白鳥←冬と夏、対立関係 →涼し

 言葉の相関図とでも言えば良いでしょうか。白鳥、少女、なぶる、涼し、四つの言葉の関係は決して一方通行ではなく、それぞれが反対の方向からも結び合っています。肯定は否定であり、同調は離反であり・・・。縺れあった言葉の向こうに、飛び散った白い羽毛が見えてきます。


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 句の構造、細部を辿ると、つくづく思われるのは中村苑子が自身の俳句感覚に持っていた執念です。季語の自在な使い方、切り捨て方、主観を信じた言葉の選び方、組み合わせ方。「他人(ひと)に解ってもらう必要などない。」と言わんばかりです。 ( 長い研鑚を経て、行き着いた境地ではありましょうが。 )

 句は「独り善がりになってはいけない。」「 ( 読む人に ) 解らなくてはいけない。」と言われてきましたが、彼女にそんな常識は通用しません。句は明快で、主眼はしっかりと咀嚼出来ますが、それは俳人が「解りやすく詠む」ことを心がけたからではないでしょう。むしろ、自分の言葉、自分の方法、自分の美意識に徹しきっているからこそ、苑子ワールドに誘いこんだ読者を酔わせ続けることができるのでしょう。
 こうした懼れを知らない、手のこんだ表現のなかから、美しさ、怖さ、なよやかさ、理不尽さ、をないまぜにした、苑子独自の「少女」像、さらに「少女」というものの複雑で儚い本質が立ち上ってきます。
作者は少女を主役に配し、季語に狂言回しの役を割り当てました。そして、ふたつの季語は見事にその役柄を演じています。
 「白鳥」か「涼し」か、冬なのか夏なのか。問いかけは、さらに別の問いかけを呼ぶのです。
 少女は白鳥をなぶっているのでしょうか。それとも、愛撫しているのでしょうか。

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