永田耕衣的空間についての一考察 
 
ルソーとピカソの視線をめぐって      松下カロ


蛇使い


ナイーヴ・アート(Naïve Art素朴派絵画)の代表的な画家アンリ・ルソーに「蛇使いの女」という作品がある。鬱蒼とした密林の中、豊満な女性が笛を吹き、影の色をした蛇を操る情景が描かれている。 
深緑の葉が茂る熱帯の岸辺はエキゾティックで、低い笛の音色が聞こえてくるようである。が、じっと観ていると、どこかアンバランスな感覚に陥る。画面には奥行きが無い。樹木は、人物の直ぐ傍にあるようにも、ずっと遠方にあるようにも見える。一枚一枚の葉は、丁寧に描き込んではあるのだが、透視と陰影の技術が拙いためか、現実感に乏しく、子供が描いた絵、といった印象を与える。

はっきり言えば、ルソーの絵は下手である。

彼は正規の美術教育を受けていない。(長い間、税関吏だった。)パースぺクティヴ(遠近法)を使えない。デッサンは不正確で、色彩も洗錬されていない。絵画の基本を知らなかったからである。しかし、知らないということは強い。どんなに上手く描いても個性を開拓するのは至難であるが、下手な絵には、他人に真似の出来ない下手さがある。色の知識を得ると、色の常識に捉われるようになるし、デッサン力がつくと、もう二度と「下手な絵」は描けない。「上手い絵」から脱却することは、下手な絵を上達させることより、ずっと難しい。

永田耕衣の句を下手だと言う訳ではない。なにしろ私は学生時代から筋金いりの耕衣ファン。弟子入り嘆願の電話をかけたこともあるのだ。(この電話には、耕衣自身が出てきてビックリ、そのあと何を話したか憶えていないほど緊張した。)しかし、耕衣の作品の幾つかは、何故か素朴派の歪な風景や人物画を想起させる。ルソーの絵に見られる不思議な距離感、主体の視線のヴィヴィッドな動揺と似たものが強く感じられるからである。

田にあればさくらの蕊がみな見ゆる『加古・傲霜』

満開の桜の花弁がなまめかしく開き、金色の蕊をあらわにする。絢爛と、そして静謐な空間。読者の目には無数の花蕊がいっせいに飛び込んでくる。気になるのは、耕衣の居場所だ。彼は田んぼの真ん中に立っている。桜木からは遠く隔たっている筈だ。しかし、蕊は「みな見ゆる」と断言されている。
耕衣は、田に在りながら、花びらの内側を覗き込む、という二つの立ち位置を設定しているのだ。このような「視点の二重性」が、桜花に鮮やかな、反面、此世ばなれした独特の美しさをもたらす。俳句ではこれを「不可視」と言い、前衛が好み、伝統は嫌う、とされるが、耕衣はごく自然に、「ふたつの視覚」を使いこなしている。
ルソーが描いた草花を思い出す。彼は、葉の表や裏がどんな色と模様であるかを細かく観察し、丹念に遠景の草に描き入れる。キャンバス上には、遠くて見えない筈の葉脈が浮き立って見える。知識を持たなかったからだが、結果として、ここにも「視点の二重性」が生まれている。間近な景と離れた景が画面のなかに混在し、稚拙な素描の絵に、技では生み出せない魅力が溢れる。

ルソーの自画像には、中央にパレットを持つ自身の姿が置かれている。バックに河と橋、道行く人、空には気球。遠近感がないせいか、画家は小人の国に迷い込んだガリバーのようである。

ルソー 自画像


夏蜜柑いづこも遠く思はるる  『驢鳴集』

この句を、石田波郷の「朝顔の紺のかなたの月日かな」(『風切』)とも重なる、人生の述懐のこもった静かな詩を含んだ句として読むことは、勿論ひとつの鑑賞であろう。他方、こんなアプローチも可能である。机の上に置かれた一粒の夏蜜柑を見つめる。他は見ない。また、夏蜜柑を目の前に持ってきて視界を塞げば、でこぼこした肌以外は見えなくなる。クローズアップされた果実は宇宙よりも大きい。他の存在は消え、夏蜜柑が耕衣の自画像であることが、よく解る。

二十世紀の芸術家の筆頭に挙げられるパブロ・ピカソ。彼は十代で完璧な写実技巧を身につけ、さらに、卓抜な感性でキュビズムを生みだした。ピカソと聞くと、大抵の人が思い浮かべる、前向きの目と横向きの鼻がひとつの顔に投げ込まれたスタイル、多くの視点を同一画面に再現する手法である。  
そこには、ルソーと共通する視点の多重性(あちこちから見た沢山の視線)がある。複数の視線が同居するピカソの絵画にも、遠近法は成立しない。 
ふたりの画家の違いは、ピカソは遠近法を否定していたが、ルソーは始めから知らなかったということだろう。この時期のピカソの代表作「アヴィニョンの娘たち」は、厳しく隙のない構図だが、ルソーの画面は、いつものんびりと長閑である。

アヴィ二ヨンの娘たち


耕衣句にも、遠近を捨てた自在な空間が広がる。

野の風にあたりてゆれぬ夏の山  『加古・傲霜』
ひろき道みえてゐるなる囮かな  『〃』
夏の夜の地よりあがりし蝶々かな 『〃』
カツトグラス路傍の家に木箱の中 『吹毛集』
緑陰に入るや遠くに他の緑    『驢鳴集』
冬の沼遠し遠しと猫行くや    『〃』

猫の句は、「恋猫の恋する猫で押し通す」と比べると、やや地味かも知れないが、耕衣は、ここで意識的なパースペクティヴの喪失を図っている。
猫が遠ざかると、沼が近づく。作者の居所は不明だが、視線は遍在している。猫との隔たり。沼の広がり。耕衣は猫を追っているのか、沼を俯瞰しているのか。沼とは喩の一環であるのか。キュビズムの思考とも似た、常套な距離への疑いがある。「や」は詠嘆か疑問か、絵と意味の相乗した曖昧さは、考え抜かれたものか、無意識の産物だろうか。
私(わたくし)に拘りつつ、私を超えようとした耕衣にとって、消失点をなくした句の中の猫は、夏蜜柑と同じように、彼自身に他ならない。
ここで浮かんでくるのは、永田耕衣は、ルソーのように天真爛漫に創作した結果、「多様な視線」を手に入れたのか、それとも、ピカソばりに意志を持って写生技法を去り、実験試行を重ねて、「奔放な視覚」に到達したのだろうか、という疑問である。
どちらとも言えないが、生え抜き耕衣ファンとしては、前者の方を願いたい。ピカソは偉大だが、何だかルソーの下手な絵の方が幸せそうに見えるからである。
          

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はじめまして。 from 山猫軒 | URL | 2010/06/12 Sat 13:53 [EDIT]
興味深く拝見しました。
勝手にリンクを貼らせていただきましたので宜しくお願いいたします。

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