楕円の法則 松下カロ
Ⅰ 楕円とユリウス
みな死んで赤い風船だけ残る 佐々木貴子

佐々木貴子の第一句集『ユリウス』中、どの句にもユリウスの文字は遣われていない。


ユリウスと言えばローマの執政カエサルが浮かぶが、
ユリウスが何か、よりも、そこにユリウスがいないことを重視したい。

津沢マサ子の第一句集『楕円の昼』が浮かぶ。
この集も句内に「楕円」の語を持たない。
題名に冠する以上、名称は集を統べる何物かである筈だが、マサ子も貴子もそれを明らかにしない。


楕円とは「二つの焦点(定点)からの距離の和が一定となる点の集合による曲線」を謂う。
円は一つの中心点に侍する従順な図型だが、
楕円は相対する二つの点の関係性の上に成り立つ可動的な形態なのだ。

批評家花田清輝は、楕円を表現者の在るべき姿に擬えて以下のように述べる。
「何故に楕円を描かないのであろうか。
二点の内、一点だけは見ないふりをし、円ばかり描いている連中ばかりだ。
自分の魂の周辺が、いかなる曲線を描いているかを示すということは、それほど困難なことであろうか。・・・」


魂の周辺に自在な楕円を描くためにある「もう一つの点」。
これは句の外に置かれた名称(題名)とよく似ている。
マサ子と貴子はその定点で出合う。二人の作品は同じ方向を向いている。
灰色の象のかたちを見にゆかん 『楕円の昼』
みな死んで赤い風船だけ残る 『ユリウス』
灰色―赤 象―風船 かたち―死 ゆかん―残る。
色彩と物、現存と死、「ゆかん」が持つ意志、「残る」が負う孤独。
言葉は呼び合っているように見える。


加えて両句に在るのは読者の主観を誘いだす広い空間だ。
「灰色の象」も「赤い風船」も受け手の意識を固定しない。
オブジェの前に立つ鑑賞者のように、読者は「此処に在るのは何か」を考える。さらに、
晩夏の海は内股にこそ流れける マサ子
内股と内股ふれてすこし桃 貴子
かぎりなく背鰭の黒い五月かな マサ子
永遠の夏野背鰭を燃やしけり 貴子
語彙と世界観が通じている。これは偶然であって偶然でない。
貴子は必ずしもマサ子を意識していなかっただろうが、
彼女が句集後半に辿り着いた場所は、マサ子が嘗て到達した場所に近いからである。

巻頭の、
夏草が砂場に生えて人恋し 貴子
涼しい質感に始まり、終には、
雪ふってふって人間うすまりぬ 貴子
の形而上化に至る『ユリウス』は、貴子の風船が普遍を宿し、
マサ子の象に連なるまでの、試行と断行の過程を示している。

『楕円の昼』に楕円がなく『ユリウス』にユリウスがいないのは、
彼女たちの表現のかたちが俳句の定点を捉えつつ、
俳句を離れたもう一点をも含む楕円を成すことへの自覚の証である。
2014年 「儒艮」11月1日 号

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