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カロ歳時記 夏休み少年の傍少女ゐず 岩月通子
カロ歳時記
saison de karo 101
夏休み少年の傍少女ゐず 岩月通子
ダイニングキッチンから白いペンキを塗ったテラスが見え、
その向こうには、樹々や露を含んだ草の斜面に朝の光が広がっていた。
九時半だった。


龍一は昨日買ったばかりのBVDの白い下着とパジャマのズボン姿で冷蔵庫をあけた。
空気はひんやりとして十九の皮膚がひきしまる。


コーンフレークと牛乳と果物の缶詰を二種類だす。
野菜入れをあけるとキウイもあった。
りんごも欲しいところだが、あいにく切らしていた。
佐藤泰志 『しずかな若者』

首都を出発するとき、後部座席にパヴェーゼの全集を五冊積んできた。
あとはパジャマとわずかな着替えと水着だけだ。
三日ほど前、母親と娘ふたりの三人連れが、タクシーでやって来た別荘が、
五十メートルほど下の斜面に建っている。

ゆうべ、母親の眼を盗んでやってきたあの娘は、彼よりひとつ齢上だった。
龍一は風呂上がりで、パジャマに着替えたところだった。
玄関のドアをノックする音がしたので、
あけてみるとTシャツにジーンズの彼女が微笑んで立っていた。
おそくなったわ。さっき母と妹がやっと寝室にはいったの。
トランプでもする?
それよりあかりを消してくれないかしら。

全く上出来な女の子だ。
あの下の別荘で、彼女はまだ眠りをむさぼっているかもしれない。
タウン誌に目をやり、今日はどう時間を過ごそうかと考えた。
産業道路沿いに出来た店の紹介、彼にとっては珍しくもない。
たいがいの場所は行った。行ってないのは、この狭い別荘地の上にある墓地公園だけだ。
僕の頭上にあるのはそれだ、と考えるとなんだかひどく愉快だ。

そう言えば、父はあそこに墓をひとつ買ってあるはずだ。
この町は父の故郷だ。
若い頃、炭鉱の事務の仕事に見切りをつけて、
首都に出て不動産業で成功した。そうして、故郷に墓と別荘を買った。
まるで、自分の会社に勤めていた女子社員を、母のかわりに手にいれたようにだ。
去年両親はあっさり離婚した。
母は父が残したこのちっぽけな別荘を売りにだしている。


椅子に腰かけ、テラスの手すりに足をのせる。
光は次第に柔かみをまし、読書にはうってつけだ。
パヴェーゼはもう三冊読んだ。
あと二冊読み終える頃には海水浴場が人でいっぱいになる。

六十三ページをひらく。
ひとりの娘をぼくはポー河へ連れていった。
しかし、驚くほどの、特に新しいことは何も起こらなかった、という文章から読み始める。
撲は十九だ。あわてることはない。驚くほどのことは何も起こらない。
昨日の彼女のことだって、父や母のことだって。

ひとりでいて淋しくない?
明け方ちかく、うとうとしかけた龍一に彼女はそうたずねた。
そういうことは感じないたちなんだ。
こういうのはどお? 首都に帰ってもお互いに逢わないの。
それで来年の夏、またここで、こうして会うのよ。
賛成だよ。いい考えだ。

八十二ページの九章目まで読んで本を閉じた。
君も沼に来いよ。人目がないんだ。
太陽には何も隠してはならないんだ。
そこまでだ。続きは明日。

彼女は今夜も、斜面をこっそりのぼって来る。
ぼくはパヴェーゼを読み終わる。・・・・海水浴。
だしぬけに、読んだばかりの小説の一節が浮かんだ。
君も沼に来いよ。太陽には何も隠してはならないんだ。
ほんの一瞬、彼は自分が他人を省みないでも平気でいられる若者のひとりのような気がした。
佐藤泰志 『しずかな若者』
saison de karo 101
夏休み少年の傍少女ゐず 岩月通子
ダイニングキッチンから白いペンキを塗ったテラスが見え、
その向こうには、樹々や露を含んだ草の斜面に朝の光が広がっていた。
九時半だった。


龍一は昨日買ったばかりのBVDの白い下着とパジャマのズボン姿で冷蔵庫をあけた。
空気はひんやりとして十九の皮膚がひきしまる。


コーンフレークと牛乳と果物の缶詰を二種類だす。
野菜入れをあけるとキウイもあった。
りんごも欲しいところだが、あいにく切らしていた。
佐藤泰志 『しずかな若者』

首都を出発するとき、後部座席にパヴェーゼの全集を五冊積んできた。
あとはパジャマとわずかな着替えと水着だけだ。
三日ほど前、母親と娘ふたりの三人連れが、タクシーでやって来た別荘が、
五十メートルほど下の斜面に建っている。

ゆうべ、母親の眼を盗んでやってきたあの娘は、彼よりひとつ齢上だった。
龍一は風呂上がりで、パジャマに着替えたところだった。
玄関のドアをノックする音がしたので、
あけてみるとTシャツにジーンズの彼女が微笑んで立っていた。
おそくなったわ。さっき母と妹がやっと寝室にはいったの。
トランプでもする?
それよりあかりを消してくれないかしら。

全く上出来な女の子だ。
あの下の別荘で、彼女はまだ眠りをむさぼっているかもしれない。
タウン誌に目をやり、今日はどう時間を過ごそうかと考えた。
産業道路沿いに出来た店の紹介、彼にとっては珍しくもない。
たいがいの場所は行った。行ってないのは、この狭い別荘地の上にある墓地公園だけだ。
僕の頭上にあるのはそれだ、と考えるとなんだかひどく愉快だ。

そう言えば、父はあそこに墓をひとつ買ってあるはずだ。
この町は父の故郷だ。
若い頃、炭鉱の事務の仕事に見切りをつけて、
首都に出て不動産業で成功した。そうして、故郷に墓と別荘を買った。
まるで、自分の会社に勤めていた女子社員を、母のかわりに手にいれたようにだ。
去年両親はあっさり離婚した。
母は父が残したこのちっぽけな別荘を売りにだしている。


椅子に腰かけ、テラスの手すりに足をのせる。
光は次第に柔かみをまし、読書にはうってつけだ。
パヴェーゼはもう三冊読んだ。
あと二冊読み終える頃には海水浴場が人でいっぱいになる。

六十三ページをひらく。
ひとりの娘をぼくはポー河へ連れていった。
しかし、驚くほどの、特に新しいことは何も起こらなかった、という文章から読み始める。
撲は十九だ。あわてることはない。驚くほどのことは何も起こらない。
昨日の彼女のことだって、父や母のことだって。

ひとりでいて淋しくない?
明け方ちかく、うとうとしかけた龍一に彼女はそうたずねた。
そういうことは感じないたちなんだ。
こういうのはどお? 首都に帰ってもお互いに逢わないの。
それで来年の夏、またここで、こうして会うのよ。
賛成だよ。いい考えだ。

八十二ページの九章目まで読んで本を閉じた。
君も沼に来いよ。人目がないんだ。
太陽には何も隠してはならないんだ。
そこまでだ。続きは明日。

彼女は今夜も、斜面をこっそりのぼって来る。
ぼくはパヴェーゼを読み終わる。・・・・海水浴。
だしぬけに、読んだばかりの小説の一節が浮かんだ。
君も沼に来いよ。太陽には何も隠してはならないんだ。
ほんの一瞬、彼は自分が他人を省みないでも平気でいられる若者のひとりのような気がした。
佐藤泰志 『しずかな若者』
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