カロ歳時記

 saison de karo 85


    青年飢えてつねにレモンの香を放つ 穴井太


 
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その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。


いったい私はあの檸檬が好きだ。
レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。

結局私はそれを一つだけ買うことにした。



                                       梶井基次郎  『檸檬』




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その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。

その頃私は肺尖を悪くしていていつも身体に熱が出た。
事実友達の誰彼に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。

その熱い故だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。
 

私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。
それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。



生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。




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                                  京都 丸善




赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。
煙管、小刀、石鹸、煙草。




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私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。

そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。





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それからまた、私は、びいどろという色硝子で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。

またそれを嘗めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。



                 

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あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。

私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ちぶれた私に蘇みがえってくる故だろうか、まったくあの味には幽かなさわやかな、なんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。



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                                 梶井基次郎

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丸善の前だった。

私はずかずか入って行った。



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しかしどうしたことだろう、

私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。
香水の壜にも煙管にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立てこめて来る。



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私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。私は画本の棚の前へ行ってみた。

一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。




                れもん アングル


                             アングル 「浴女」



とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本までなおいっそうの堪えがたさのために置いてしまった。

――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。

私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。




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「あ、そうだそうだ」

その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。

「そうだ」
 
私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。
私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。
奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。



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やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。
そしてそれは上出来だった。

見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。

私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。


                                              『檸檬』



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