saison de karo 

白い雲をパンの神とし麦野ゆく 多田裕計

シャガール


そして、丁度その時であった。何の気もなしに頭へ手をやって、始めて触れたのがその角(つの)だった。まさかとは思ったのだが、たしかに瘤などではない、異様に尖ったふたつの隆起が、額のすぐ上に感じられた。同時に全身、とりわけ下半身のほうに音を立てるほどの勢いで、体毛の伸び出すのが判った。春の街なかで、何かとんでもない変身が起こりかけているらしい。髪も髭も、前から長く伸ばしているんだし、人眼に立つとは思えないけれど、タカシはあわてて行きずりのメンズウエアの店の前で立ち止まると、仄暗いウインドをのぞきこんだ。

・・・変身はどうやら完了したらしい。サチュロスというのか、それともフォーヌとかパンとか呼ばれる、山羊の蹄と角とを持った、あの毛むくじゃらな牧神に自分がなってしまったことを、まだ誰も気づいていないんだと思うと、ちょっぴり嬉しいような、それでいてひどくみじめなような、妙な気分だった。
・・・決闘・金狼・愛餐・幻日・袋小路・紫水晶・歪景鏡・贋法王・挽歌集・首天使・三角帆・宝石箱・帰休兵・火食鳥・花火師・水蛇類・送風塔・冷水瓶・聖木曜日・・・囚人名簿・二人椅子・耳付きの壺・放浪楽人・とらんぷ屋・埃及の舞姫・土耳古スリッパ・露西亜の四輪馬車・・・。
さっきから耳のなかで唸りをあげているのは、およそ脈絡もない言葉の羅列で、それがふらんす語やらロシア語やらのきれぎれな発音をともなって、次から次へと風のように掠めては去るのに、タカシはすっかり閉口していた。

・・・「目をつぶってろよ。いいか、よしって言うまで、あけちゃダメだぞ。」
コートを脱ぎ棄て、シャツを毟り取り、タカシは水浴びをする前のような手早さで、着ているものすべてをそこへ払い落した。靴下をとって、二つに割れた蹄を見たときは、ちょっと悲しい気がしたが、それよりも、この青空の下で、生まれながらの本当の姿に還れた喜びのほうが大きかった。

・・・「あたいも裸になっちゃおうかな。」「そうしろよ。ニンフはみんな裸だぜ。」
こういうわけで、T・・自然動物園には、新しく牧神とニンフの放し飼いになっている場所がある・・・・
       
                            中井英夫  『牧神の春』
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