中村苑子遠望     磯巾着は詠う   その


踏まれどほしの磯巾着の死に狂ひ    中村苑子   『吟遊』


いそぎんちゃく7





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中村苑子(1913~2001)は、昭和後期に活躍した俳人。

翁かの桃の遊びをせむと言ふ

春の日やあの世この世と馬車を駆り

来し方や東西南北ただ遠樹

などの、端正、妖艶な句風で知られています。




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踏まれどほしの磯巾着の死に狂ひ

「死に狂ひ」。

中村苑子の作品として、掲句を思い浮かべるひとは、まずいないでしょう。
しかし、私はこの句が忘れられません。苑子の内面世界にとって、大変重要な句であるという気がしてならないからです。



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「踏まれどほし」。

あまり聞かない言葉遣いです。七七五の破調。
「どほしの」四音の内三音は「オ」音で暗く、「ずーっと踏まれてきました。」という重苦しさを感じさせます。この頭でっかちな「踏まれどほし」+「の」から、「磯巾着」+「の」、さらに下五「死に狂ひ」へと、序破急な句の展開は、切れる暇もありません。
摂津幸彦か、江里昭彦か、男性俳人がごく若い頃に作った句のようです。磯巾着には、性的なイメージを喚起される向きもあるでしょう。個人的には、むしろ我慢の辛さ、耐え切れない逆境から一転、反撃に出る意志のようなものを感じます。


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中村苑子は毎日窮屈だったのではないかしら・・・。と思うことがあります。

彼女は1958年、長年のパートナーとなる高柳重信(俳人・批評家)と共に、「俳句評論」を創刊しています。

「俳句評論」は、大きな所帯でこそありませんでしたが、この時期を代表する句誌のひとつ。四半世紀に亘って所謂前衛俳句を牽引しました。

数十年に及ぶ多士済々の俳人、文人達との交流。富沢赤黄男。高屋窓秋。苑子にしてみれば、「頭を下げどほし」の生活でしょうか。しかも「俳句評論」は1967年まで、三橋鷹女をいただいていました。恐れ多くも、頭が痛くなりそう・・・。
冗談はさて置き、中村苑子が最も影響をうけたのは、なんと言っても三橋鷹女と高柳重信のふたりです。「これは鷹女風、」「こっちは高柳ばり、」と区別出来るほどです。

祭笛のさなか死にゆく沼明かり
は鷹女、

行きて睡らずいまは母郷に樹と立つ骨
は重信、というように・・・。


               

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                 三橋鷹女  綺麗。




鷹女への傾倒は、早くから始まっています。昭和11年、苑子20代の頃、

ひるがほに電流かよひゐはせぬか 東鷹女(当時の鷹女)
(『向日葵』に収められた句ですが、苑子は『俳句研究』誌上で目にしています。) をはじめて読み、
「・・・それまで私の身の内で眠っていた何ものかが、急に呼び覚まされ、にわかに動き出した・・・」 と思ったといいます。



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以来、

夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり 鷹女『向日葵』
夏痩せて無口となりし立居かな 苑子1950年作

秋の蝶です いつぽんの留針です 鷹女『羊歯地獄』
留針を真昼の蝶にしかと刺す 苑子『花狩』

亡母去る葱の白根に土かぶせ 鷹女『橅』
母の忌や母来て白い葱を裂く 苑子『水妖詞館』

モチーフ、季語の捉え方、リズム。ちょっとした言い回しから思想まで、あらゆる場所に鷹女の面影を感じ取ることが出来ます。

よく知られているのは、

鳴き急ぐは死に急ぐこと樹の蝉よ 鷹女『羊歯地獄』
鳴き急ぎ死に急ぐなよ初蝉よ 苑子『花隠れ』

「鷹女に対抗した」というよりは、「鷹女と一体になった」と言った方が良いような、中村苑子晩年の一作です。



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高柳との出会いはずっと後のことでした。

苑子自身に寄る「略年譜」を読むと、
「1954年、花柳章太郎の句会『矢吹会』に入会し、会の世話役高柳黄卯木 ( 重信の父 ) を識る。・・・」 の記述。



また、
「昭和29年( 1954年 )ごろ、神田古本屋街の『きゃんどる』という喫茶店で、」 偶然出会ったのが、高柳との初めての邂逅であった、とも書いています。

三橋鷹女が苑子に俳句それ自体をもたらしたのだとすれば、高柳重信との出会いが彼女にもたらしたものは「方法」であった、と言って良いでしょう。

高柳と出会う以前に、構造的な冒険を試みている句は ( 現在読むことが出来る句に関しては、 ) 殆ど無いように思われます。俳句の伝統的な作法に疑問を持つということは ( 基本的には ) 無かったようです。それはそれとして、気持の良い句、嫋々として魅力的な句はたくさんあります。

野は昏れて初蝶帰るところなし
僧形のあとさきとなり麦の中
墓に挿すものなかりけり野分来て
咆えてもみよ檻の中まで寒月光      1942~53

二句目、四句目などには、すでに、高柳の触発に充分答えることの出来る柔軟さを垣間見ることが出来ます。


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高柳重信と出会ったことで、彼女の作品は変わってゆきます。

中村苑子の句に感じられる最も早い高柳重信の影響は、

待ちに待ちたる彫像が腕を下ろす日 1956年
ゆふべ死んで炎天を来る黒い傘

あたりからでしょうか。
以来、高柳との二人三脚による華麗な句作が展開することになります。同時に、三橋鷹女を永遠のミューズとして信奉する気持は苑子から去りませんでした。

句作のバックボーンとなった、三橋鷹女への憧憬、高柳重信によって目を開かれた新しい方法への挑戦、地道な表現技術。花が水を吸うように、たくさんのものを吸収し尽くしていったであろう昭和30年代 ( 1955年 )以降・・・。

『水妖詞館』上梓は1975年ですから、20年の間に、中村苑子の中で、

( 三橋鷹女+高柳重信 ) × ÷・・・=苑子自身の句=「独自な作風」
とでもいうような公式が証明されていったのでしょうか。

三橋鷹女と高柳重信。
ふたつの ( まったく異なる ) 大きな才能がどのように苑子俳句にかかわったか、どこかでふたりの影響にきっぱりと区切りをつけて苑子自身になった、ということはおそらく最後までなかったのでしょう。
俳人の心を覗き込むことは出来ませんが、何か手がかりになるものは・・・と考える時、浮かんで来るのが冒頭に揚げた句です。

踏まれどほしの磯巾着の死に狂ひ


 磯巾着は詠う その弐へ続く!!



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