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カロ歳時記 夕顔に耳なし芳一が来たよ 寺井谷子
カロ歳時記
saison de karo 145
夕顔に耳なし芳一が来たよ 寺井谷子

ある晩のことであった。
芳一は寝間の前の縁先へ出て風にあたっていた。
誰か庭を通り抜けてやってくる者がある。
足音は芳一のいるすぐそばまで来て、ぴたりと止まった。
ラフカディオ・ハーン 『耳なし芳一の話』


芳一。
芳一はぎょっとしたあまり、しばらく返事をしかねていた。すると、
声はもう一度、命じるような調子で呼ぶのである。
芳一。
はい。わたくしは目の見えぬものでございます。
どなたがお呼びくださいますやら、一向に解りませんが・・・。

Imperial Household Agency
わしの主人はさるやんごとなきお方でいらっしゃるが、
かねがねおぬしは合戦ものの琵琶が上手と聞き及んで、
一つそれを聴いてみたいとのご所望なのじゃ。
おぬし、これからわしと一緒に、
そこなる琵琶を携えて
高貴がたのお待ちあそばしている館まですぐと来るがいい。


侍らしい男に手を引かれていると、身につけた甲冑がこうこうと鳴るのが聞こえた。
しばらく行くと、ふたりはどこか大きな門の前にでた。
やがて大きな広間のまんなかへ案内された。
衣ずれの音がまるで森の木の葉のさやめきのようである。


女の声がした。
ただいまこれよりその琵琶に合わせて、
平家物語を語ってきかせよとの
ご所望でございます。

平家はなかなかもちまして全曲を語り切れるものではございませぬ。
お上にはいずれの段を語れよとのご所望でござりましょう。
壇ノ浦の合戦の段をお語りあそばせ・・・。

芳一は琵琶を取り上げて、激しい海戦の歌を語った。
ひょうと鳴る矢風、軍勢のおたけび、兜にあたる刃の音・・・。
感嘆のあまり、あたりは水を打ったようにしんと静まり返っている。

やがて平家一門の女子供の憐れな最期、
御幼帝を抱き奉った二位の局の入水のありさまを語りだした時、
聴く者は長いながい苦悶の声を発して、
果ては激しい慟哭の声をあげて、
深く嘆き悲しみだした。


やがてその声はしだいに消えるともなく消え去って、
ふたたびもとの深い静けさにかえった。
『耳なし芳一の話』



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