カロ歳時記
saison de
karo 92 花束に埋れ罪障なきに似る 三谷昭
日曜日に玄関のチャイムが鳴って、近所の将棋仲間だろうと思ってドアを開けたら、
花束を持った外国人の若い
男が立っていた。
その男が、
「こんにちは、ぼく、
ミチコの友達、
アントニオです。よろしく。」
と、たどたどしい日本語で言って手を出した。

私は
家内と
娘を呼びました。
家内が出てきて、
「あら、
アントニオ君ね、はじめまして。
ミチコがいつもお世話になってます。」
私の知らない
男の名を親しげに呼ぶのです。
彼は
家内に、
「これ、お母さんに。」
と
花束を差し出しました。

すると
家内は、
「あらまあ、私に?」
今まで聞いたこともないような
華やかな声で言ったんですよ。
ミチコがゆっくりとでてきました。
娘は、子供の頃の病気で、片脚を切断しまして義足を着けていましてね、
歩くのが不自由なのです。

「
ミチコ、今日はいい天気だ。
散歩に行こう。」と彼が言いますと、
「ちょっと上がったら。」
「そうよ、せっかくいらしたんだから、どうぞどうぞ。」
娘と
家内は、私の意向を確かめもせずに言うのです。
これは俺の
家だ、とは申しませんが、少なくとも、私の
家でもあるわけです。
ミチコは自分の作ったケーキを出しました。
彼はまだ甘いものを食べたい盛りの
子供のように、コーヒーをミルクと砂糖をたっぷり入れて、
ケーキもふたつ食べて、おいしいおいしいと、ほめそやすのです。
彼はイタリア人で、電子技術の
勉強をするために日本に来て、近くのビルの夜警をしながら、
専門学校へ通っていました。
ステッキをついて歩く
ミチコと道で会って、
彼のほうから声を掛けて、一緒に歩くようになったのだそうです。

それから、
彼とミチコは
散歩に出かけました。
「あのふたりはどんな関係なんだ。」
私はふたりが出ていった後、
家内に言いました。
「ご覧になった通りでしょ。」
「お前、心配じゃないのか。」
「
あなた。」
家内は私の顔をじっと見ました。
「日本の男の子なら安心?日本の良い家の男の子なら、
ミチコを
幸せにしてくれると思うの?」

ある日、私が会社から帰ってくると、
彼が家にいて、
ミチコと二人で台所をやっているんです。
家内はテーブルに肘をついて、
「若い男の子が料理しているのを見たことがないから面白いわ。」

何という料理だったか、西洋風炊き込みご飯のようなもので、なかなか旨かったです。
皿洗いも、
彼はまるで当家の息子のように、
ミチコと妹の
チカと三人兄妹のようにやって、コーヒーを飲んだら帰るかと思っていたら、
「今日、ぼく泊まります。」
私に言うのです。
「今日
アントニオは
休日なの。泊めてあげていいでしょう。」と
ミチコ。
「歯ブラシ、タオル、持ってきました。」これは
アントニオ。
「泊まりますと言っても、
君、家の娘は
女なんだよ。」
私が言いますと、
「
男の娘なんていないよ。」
チカがにやにやして言いました。
「
イタリアでは、よく友達の家に泊まります。」
「ここは
日本だよ。」
「あなた、ちょっと。」
家内が私を隣りの部屋へ連れて行きました。
「
ミチコはね、彼と
歩くようになってから、ステッキなしで外を
歩けるようになったんですって。
彼は
ミチコと同じよいうにゆっくり
歩いてくれて、苛立ちもしないし、ミチコも安心してやっていけるんですって。」
その夜、
彼は我が家に泊まりましたが、
私は
夜中に二度、トイレに起きて、居間のソファに
アントニオが寝ているのを確かめました。
アントニオは専門学校を
卒業して、イタリアへ帰りました。
ミチコはイタリア語の勉強をしています。
文通も続いているようです。

「
アントニオに会いたいのか?」
ミチコに聞いてみました。
「うん、会いたいけどさ。」
娘は湿り気のない声で言いました。
「
アントニオみたいな人が育った
国って、どんなところか、行ってみたいんだ。
私ね、ゆっくりしか
歩けないでしょ。
なんだか、早く
歩けない理由を説明するためにステッキにすがっていたような気がする。
でも今はね、ゆっくり
歩けばいいんだって、それでいいんだって、思えるようになったの。
アントニオが自然にそういうことを私に教えてくれたのよ。
そういう人が育つ
国へ行ってみたいんだ。」
干刈あがた 『花束』
春はまだかニャ