カロ歳時記
saison de
karo68 図書館を今日も椿に触れて去る 今泉康弘
ある日私は久しぶりに学校の図書館にはいりました。
私は広い机の片すみで窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外国雑誌を、
あちらこちらと引っくり返して見ていました。
すると突然幅の広い机の向こう側から小さな声で私の名を呼ぶものがあります。
私はふと目を上げてそこに立っているKを見ました。
Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近付けました。
Kは低い声で勉強かと聞きました。
私はちょっと調べ物があるのだと答えました。
それでもまだKはその顔を私から放しません。 同じ低い調子でいっしょに散歩しないかというのです。
私はやむを得ず読みかけた雑誌を伏せて、立ちあがろうとしました。
Kは落ち着きはらってもう済んだのかと聞きます。
私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返すとともに、Kと図書館を出ました。
二人は別にゆく所もなかったので、龍岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へはいりました。
私はまず、 「精神的に向上心のないものはばかだ。」と言いました。
「ばかだ。」と、やがてKが答えました。 「僕はばかだ。」
夏目漱石 『こころ』