saison de karo 11


川を見るバナヽの皮は手より落ち 高浜虚子


ばなな


私がまだ「プー子」のウエイトレスであった頃、バナナの花にであった。中央の大テーブルに、その頃お花を頼んでいた青山のどこだかいう店から、毎週すばらしいお花の数々が生けられていた。ものすごーく忙しいお店だったらね、お花なんてそうじっくり見ていられないはずだと思う。でもそのお店はその反対だったので、ウエイトレスは毎日、何時間もただそのテーブルの上の花と見つめ合うことになる。
そんなある日、バナナがやってきた。とにかく巨大な花だった。・・・・
それは、そこにあるでっかい花びんに、なんとダイナミックに一輪ざしであった。・・・
あんなに大きく変なものがこの世にあるなんてそれだけでも嬉しい。葉も、茎もかっこいい。
           吉本ばなな 『バナナの秘密』


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Goulue de karo カロ食彩4

ベル・ジャルデニェ―ルを作ろう。

ラファエロの聖母子像のひとつに、ルーブル美術館蔵「美しき庭師の聖母」(「ベル・ジャルデニェ―ル」)Belle jardinière (Madonna col Bambino e san Giovannino))と呼ばれている絵があります

belle jardiniere「ジャルデニェ―ル」は、庭や畑仕事をする女性、女庭師のことです。ガーデニングに凝って、四季さまざまな花を咲かせることに夢中な女性はいつの時代にもいるのかもしれませんね。「美しき庭師の聖母」は、庭園(というより野原の感じ)の中に佇む聖母子と洗礼者ヨハネの姿がやわらかな色調(特に聖母の衣装の赤と紺の神々しさ)で描かれた佳品。

ラファエロはその短い生涯に、旺盛な制作欲でバチカン内の『アテネの学園』など大作も手掛けていますが、また珠玉の小品、多くの聖母子像を残しました。師であったベルジーノの抒情性、大きな影響を受けたダ・ヴィンチの人物像の「フスマート」と呼ばれる陰影画法。丸い画面に赤、緑、青が絶妙のバランスで配置された『小椅子の聖母』、眉毛のうすい聖母がどことなく日本的な『大公の聖母』等・・・。でもラファエロの婦人像に理屈はいりません。ともかく、柔和で優しい。そして、彼女たちの心の中は解らない。
『美しき庭師の聖母』は、遠くに菩提樹の木が見える、のどかで牧歌的な背景を持っています。室内に描かれることの多い聖母子像としてはめずらしく、おおらかな画面構成です。でも、戸外のさわやかな風の中、聖母のふっくらした顔は、どことなく憂いを帯びています。イエスとヨハネ(可愛らしい子供姿で描かれるのがお約束。)に優しいまなざしをむけているようでもあり、なにか悩みに気持ちが沈んでいるようでもあり・・・。

初夏、カロの食卓にも、ベル・ジャルデニェ―ルと名付けた料理が上ります。なんと美しい料理名。と言っても、普通このフランスの家庭料理は、単に「ジャルデニェ―ル」と呼ばれます。素朴な豆料理に相応しい名前です。でも、新鮮なグリンピースを茹でるたびに、ベル・ジャルデニェ―ル、Belle jardinière「美しき女庭師」という言葉と、聖母の甘やかな貌を思い浮かべてしまうので、カロ風グリンピースのグラニテは、Belle jardinière(フランス語、もともとのイタリア語では、Bella Giardinier)と呼ぶことにしております。

カロ風Belle jardinière de karo『ベル・ジャルデニェ―ル』のつくりかた。

グリーンピース材料4人前 ベーコン5,6枚、玉葱1個、そして大量のグリーンピース。

1 豆は莢からはじき出す。ざっと洗って、小匙かるく一杯の塩を振りかけて、ちょっともんでおく。玉葱は半分にしてから薄切り。ベーコンは塊なら削ぎ切り、薄切りなら半分に包丁しておく。
2 大きなお鍋にグラグラとお湯を沸かす。お塩ひとつまみ。一度に豆を投入。豆は意外に火が入るのに時間がかかる。中火で10分くらい。やわらかくなったところで(食べてみれば分ります。)ざあっと笊にあける。煮汁は捨て、よく水気を切る。
3 フライパンでベーコンを炒める。(オイルは要らない)すぐに玉葱を加え、すこし焦げ色がつくまで炒める。にんにくスライスを一緒にいためても風味が増す。
4 深い鍋か、大きなキャセロールを弱火にかけ、2と3をいれて混ぜ合わせる。あたたまったらバターを大匙1くらい、グリンピースの上にちょんちょんと乗せ、木のフォークとスプーンで混ぜる。お塩は要りません。

じゃがいも1キロ、人参一本を一口大に切り、一緒にゆでて混ぜてもボリュームがでる。塩コショウした豚ヒレ肉をベーコンと共に炒めても。

献立は勿論豆ご飯。(すこしシツコイか。)胡瓜と若芽のサラダ、鰹のたたき。
ワインは赤でも白でも。ロゼでも。

ベル・ジャルデニェ―ル2


『スペインの庭師』(クローニン)という小説も浮かんできますね。おそろしいような父性のドラマでした・・・。

グリーンピース深皿に盛り春の巫女  四ッ谷龍

永田耕衣的空間についての一考察 
 
ルソーとピカソの視線をめぐって      松下カロ


蛇使い


ナイーヴ・アート(Naïve Art素朴派絵画)の代表的な画家アンリ・ルソーに「蛇使いの女」という作品がある。鬱蒼とした密林の中、豊満な女性が笛を吹き、影の色をした蛇を操る情景が描かれている。 
深緑の葉が茂る熱帯の岸辺はエキゾティックで、低い笛の音色が聞こえてくるようである。が、じっと観ていると、どこかアンバランスな感覚に陥る。画面には奥行きが無い。樹木は、人物の直ぐ傍にあるようにも、ずっと遠方にあるようにも見える。一枚一枚の葉は、丁寧に描き込んではあるのだが、透視と陰影の技術が拙いためか、現実感に乏しく、子供が描いた絵、といった印象を与える。

はっきり言えば、ルソーの絵は下手である。

彼は正規の美術教育を受けていない。(長い間、税関吏だった。)パースぺクティヴ(遠近法)を使えない。デッサンは不正確で、色彩も洗錬されていない。絵画の基本を知らなかったからである。しかし、知らないということは強い。どんなに上手く描いても個性を開拓するのは至難であるが、下手な絵には、他人に真似の出来ない下手さがある。色の知識を得ると、色の常識に捉われるようになるし、デッサン力がつくと、もう二度と「下手な絵」は描けない。「上手い絵」から脱却することは、下手な絵を上達させることより、ずっと難しい。

永田耕衣の句を下手だと言う訳ではない。なにしろ私は学生時代から筋金いりの耕衣ファン。弟子入り嘆願の電話をかけたこともあるのだ。(この電話には、耕衣自身が出てきてビックリ、そのあと何を話したか憶えていないほど緊張した。)しかし、耕衣の作品の幾つかは、何故か素朴派の歪な風景や人物画を想起させる。ルソーの絵に見られる不思議な距離感、主体の視線のヴィヴィッドな動揺と似たものが強く感じられるからである。

田にあればさくらの蕊がみな見ゆる『加古・傲霜』

満開の桜の花弁がなまめかしく開き、金色の蕊をあらわにする。絢爛と、そして静謐な空間。読者の目には無数の花蕊がいっせいに飛び込んでくる。気になるのは、耕衣の居場所だ。彼は田んぼの真ん中に立っている。桜木からは遠く隔たっている筈だ。しかし、蕊は「みな見ゆる」と断言されている。
耕衣は、田に在りながら、花びらの内側を覗き込む、という二つの立ち位置を設定しているのだ。このような「視点の二重性」が、桜花に鮮やかな、反面、此世ばなれした独特の美しさをもたらす。俳句ではこれを「不可視」と言い、前衛が好み、伝統は嫌う、とされるが、耕衣はごく自然に、「ふたつの視覚」を使いこなしている。
ルソーが描いた草花を思い出す。彼は、葉の表や裏がどんな色と模様であるかを細かく観察し、丹念に遠景の草に描き入れる。キャンバス上には、遠くて見えない筈の葉脈が浮き立って見える。知識を持たなかったからだが、結果として、ここにも「視点の二重性」が生まれている。間近な景と離れた景が画面のなかに混在し、稚拙な素描の絵に、技では生み出せない魅力が溢れる。

ルソーの自画像には、中央にパレットを持つ自身の姿が置かれている。バックに河と橋、道行く人、空には気球。遠近感がないせいか、画家は小人の国に迷い込んだガリバーのようである。

ルソー 自画像


夏蜜柑いづこも遠く思はるる  『驢鳴集』

この句を、石田波郷の「朝顔の紺のかなたの月日かな」(『風切』)とも重なる、人生の述懐のこもった静かな詩を含んだ句として読むことは、勿論ひとつの鑑賞であろう。他方、こんなアプローチも可能である。机の上に置かれた一粒の夏蜜柑を見つめる。他は見ない。また、夏蜜柑を目の前に持ってきて視界を塞げば、でこぼこした肌以外は見えなくなる。クローズアップされた果実は宇宙よりも大きい。他の存在は消え、夏蜜柑が耕衣の自画像であることが、よく解る。

二十世紀の芸術家の筆頭に挙げられるパブロ・ピカソ。彼は十代で完璧な写実技巧を身につけ、さらに、卓抜な感性でキュビズムを生みだした。ピカソと聞くと、大抵の人が思い浮かべる、前向きの目と横向きの鼻がひとつの顔に投げ込まれたスタイル、多くの視点を同一画面に再現する手法である。  
そこには、ルソーと共通する視点の多重性(あちこちから見た沢山の視線)がある。複数の視線が同居するピカソの絵画にも、遠近法は成立しない。 
ふたりの画家の違いは、ピカソは遠近法を否定していたが、ルソーは始めから知らなかったということだろう。この時期のピカソの代表作「アヴィニョンの娘たち」は、厳しく隙のない構図だが、ルソーの画面は、いつものんびりと長閑である。

アヴィ二ヨンの娘たち


耕衣句にも、遠近を捨てた自在な空間が広がる。

野の風にあたりてゆれぬ夏の山  『加古・傲霜』
ひろき道みえてゐるなる囮かな  『〃』
夏の夜の地よりあがりし蝶々かな 『〃』
カツトグラス路傍の家に木箱の中 『吹毛集』
緑陰に入るや遠くに他の緑    『驢鳴集』
冬の沼遠し遠しと猫行くや    『〃』

猫の句は、「恋猫の恋する猫で押し通す」と比べると、やや地味かも知れないが、耕衣は、ここで意識的なパースペクティヴの喪失を図っている。
猫が遠ざかると、沼が近づく。作者の居所は不明だが、視線は遍在している。猫との隔たり。沼の広がり。耕衣は猫を追っているのか、沼を俯瞰しているのか。沼とは喩の一環であるのか。キュビズムの思考とも似た、常套な距離への疑いがある。「や」は詠嘆か疑問か、絵と意味の相乗した曖昧さは、考え抜かれたものか、無意識の産物だろうか。
私(わたくし)に拘りつつ、私を超えようとした耕衣にとって、消失点をなくした句の中の猫は、夏蜜柑と同じように、彼自身に他ならない。
ここで浮かんでくるのは、永田耕衣は、ルソーのように天真爛漫に創作した結果、「多様な視線」を手に入れたのか、それとも、ピカソばりに意志を持って写生技法を去り、実験試行を重ねて、「奔放な視覚」に到達したのだろうか、という疑問である。
どちらとも言えないが、生え抜き耕衣ファンとしては、前者の方を願いたい。ピカソは偉大だが、何だかルソーの下手な絵の方が幸せそうに見えるからである。