竜のおとし子
 


中村苑子遠望  冒頭の竜のおとし子    松下カロ



   喪をかかげいま生み落とす竜のおとし子

  中村苑子の初めての句集『水妖詞館』巻頭の句です。古さも新しさも超えたこの不思議な句集はさらに

   怖れつつ葉裏にこもり透きとほる

   河の終りへ愛を餌食の鴉らと

   跫音や水底は鐘鳴りひびき

へと続きます。
  時系列でもアイテム別でもない、不思議な順列で現れる139句。考え抜かれている反面、思いつくままに句が並べられたような奔放な印象もあります。そんなかって無かった句集の入り口にある道標のような一句。
  集中のたくさんの句に魅了されながら、なぜ先頭にこの句が置かれているのか明確には解らないもどかしさがありました。
  「喪」と「生む」のアイロニー、産卵するのは雌ですが腹部に卵を抱いて孵化するまで守るのは雄である、という「タツノオトシゴ」の持つ雌雄の特性の交錯。意味を思い比喩を探りながらも答には辿り着けないままでした。
  句集編纂当時中村苑子は深刻な病名を宣告されていました。俳人に去来した思いは何であったのでしょうか、そしてどんな経緯で巻頭に「喪をかかげる」竜のおとし子の句が置かれる事となったのでしょうか。

  「・・・私は通院も治療もその日限りで止めてしまい、それに要する時間を句集上梓の準備に当てることにした。・・  中略・・急がなければならなかった。・・中略・・この時期、たしかに私の中で一生に一度の命の修羅が炎えたぎっていた。」( 現代俳句大系第14巻月報 角川書店 昭和56年 1月 )

  『水妖詞館』の頃について、後年苑子が記した文章からの抜粋です。
  胚胎する終焉、文字通り死力を尽くして句集を編もうとする決意が伺えます。 第一句集上梓のいきさつを語って興味の尽きない一文ですが、句の並べ方、また冒頭句についての言及はありませんでした。
 その後ふとした事から、竜の落とし子の句は昭和32年の『俳句研究』12月号に掲載されたものであった事を知りました。『俳句評論』に書かれた評論「虚実物語」の中で岩片仁次がこう述べています。

  「・・『俳句研究』12月号( 昭和32年 カロ注 )の作品によって中村苑子の名を僕は知った。・・・中略・・・
  喪をかかげいま生み落とす竜のおとし子
  その頃の僕は、常に喪をかかげ、その故に、また何者をも生み得ないという思いを抱いていたはずであり、一方、この作者は、喪をかかげつつ、なお生み得るのか、あるいは、喪をかかげつつ、その故にこそ生み得るのかは別として、竜の落とし子を生み得たということに、僕は何事かを見たのであろうか、いや、たぶん見たのであろう・・・」( 俳句評論169号 俳句評論社 昭和51年 3月 )

 貴重な情報を頂いておいて言うのもなんですが、なかなか晦渋な文体です。まっすぐで生真面目な昭和が匂います。評者が「生む」という言葉に強い意志を感じて勇気付けられている事が思われます。
  「虚実物語」を読む機会を得、それまで気付かなかった2点の事に目を向けさせられる結果となりました。1点はこの句の受け止め方。死と生の対比、あるいは融合を竜のおとし子にシンボライズしたのではないか、と考えていた私ですが、この句にもっとポジティブなイメージを持った評者がいたのでした。岩片さんの鑑賞は明らかに「喪」よりも「生む」ほうに比重がかかっています。こうした視点から竜の落とし子の句が読まれていた事は新しい方向へと鑑賞の目線を導いてくれるきっかけとなりました。
  もとより句の受け止めかたは、ひとりひとりの心のありようを映すものです。一句に対して評価するか評価しないか見解が真っ向から対立するのも珍しいことではありません。いつも意見が揃う方が不健康と言えるでしょう。
  岩片さんと私は同じようにこの一句に感銘を受けながら、一方は自分を鼓舞してくれる前向きな「応援」にも似たものを感じとり、もう一方は言葉の中で「生死」が溶け合う世界を感じていたのでした。
  岩片さんが初めて掲句を読まれたのは昭和32年の暮です。私が読んだのは昭和55年前後だったと記憶しています。年代や読書時の世相によっても感想は変わってくるでしょう。
 男性、女性の差も句に向かう姿勢、感受性の違いの一因でしょう。なんといっても中村苑子の心酔者は同性に多いのではないでしょうか。生と性の深部から声が聞こえてくるような作品群は、ながく女性達を捉えてきました。鍛え上げられた技巧の底に、女性なら本能的に感じとることができる光源が沈んでいます。苑子俳句の中枢から漏れる光を浴びることを楽しんで来た私は、竜のおとし子の句も、その光源の方程式( ? )を使って解き明かそうと考えてしまいがちだったかも知れません。竜の落とし子に潜むものをより内向的な意味に設定してしまったといえば良いでしょうか。
  勿論、その言葉の呪術に引き込まれるのは同性ばかりではないでしょう。若い( 昭和32年当時の岩片さんは多分 )男性の鑑賞者に新しい句の受け取り方を教えてもらったような気もしました。そして「一生に一度の命の修羅」によってつくられた句集の冒頭に相応しいのは、岩片さんの言う「生み得た竜のおとし子」の方かも知れません。「虚実物語」に出会えたことを有り難く思います。
 気が付いたことのもう1点は句の作られた時期です。編纂時に近い時期に詠まれたのではないかと考えていたのですが違っていました。上梓から約15年ほども前の句だったのです。これも驚きでした。昭和32年といえば、翌33年に苑子は8年間在籍した『春燈』を辞して、高柳重信と共に『俳句評論』を創刊しています。まさに節目にさしかかっていた時期と言えるのです。

竜のおとし子アクセサリー

  着物姿のたおやかな印象の中村苑子ですが、意外( ? )にフットワークの良い人だったようです。未亡人生活が長かった事もある意味では自由であった理由になるかもしれません。
 「ふっと思い立ってひとり旅にでた・・・。」事が何回もあったようです。吟行にも積極的でした。当時、旅先の水族館で竜のおとし子を見たのかも知れません。あるいは海辺の町で海岸に引き上げられた魚網のなかに竜のおとし子を見つけ、つくづくと見入ったのでしょうか。竜のおとし子は実にさまざまな種類、色彩に分類できる海洋生物です。俳人が見た竜のおとし子はどんな色をしていたのでしょうか。想像はひろがります。しかしもしこの頃どこかで竜の落とし子を見てつくった句であったとしても、15年も後に、最初で最後であろうという気持で編んだ句集の冒頭にこれを置いた理由は解りません。
  平凡な着想ですが、苑子句集の巻頭としては桜の句などぴったりのようにも思われます。桜と闇を対比させた幽玄な句であったとしたら、もっと自然に受け取っていたかも知れません。なぜ竜のおとし子だったのか、なぜこの句から始まるのか、やはり作者の気持は計り知れないのです・・・。
 計り知れない、と言えば句の構成についても同じことがいえます。俳句は曖昧を嫌いますが、竜のおとし子の句は見事に切れながらも、実は主体の設定がはっきりしないのです。作者自身が喪をかかげ、竜のおとし子を生む、という受け取り方。また竜のおとし子が喪をかかげ、無数の卵を生み落とす、という受け取り方も。さらに「喪をかかげ」は中七下五全体に係る修辞であると考える事も可能でしょう。こうした魔法のような言葉の操り方は『水妖詞館』のいたるところに現れます。それが少しも欠点にはならず、句の奥行きを深め、更にどこまでいっても解らない、という不思議な世界を作り上げる一因ともなっているのです。
  『水妖詞館』を開く度、真っ先に目に飛び込んで来る竜のおとし子の句。作者が命を賭す覚悟で語り始めた美しい謎はここから始まります。


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