へのアプローチ                  松下カロ



                           美濃の鯉の墨ながしけり 豊口陽子 


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              哲学者(男性)は
                  「は死んだ。・・・ニーチェ」と述べるが、
              作家(女性)は
                  「わたし、もう様を信じないわ。・・・ボーヴォワール」と言う。

              これは、神父が神の内在を(教義)によって証し、
              尼僧は(純潔)によって証すことのネガティヴである。

                                                           女神の言葉 『儒艮』13号


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                                                 ヴィーナスの生誕



              シモーヌ・ド・ボーヴォワールは幼い頃「大人たちの語る神はだ。」と気付き、
              そこから意識のが始まったと書いた。
              後年、彼女は圧巻のモチベーションで女性の本質を活写する。
              神を失うことを起点に、は自由を知り、自ら女神、ミューズとなった。

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                                                            の手



                                          
                                        
              ボーヴォワールの範例に沿って(性急だが)女神を自由の発信者であると定義したい。
              とは、例えば読解において如何なる外的制約も受けないことである。 

              

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                                    ヴィーナスもはや貫禄・・・にすると・・・・。



                                   女神

                                            
                              女神はなぜか・・・。                     
                                   皆さん頭をずーっとに倒して目の位置をよーくて・・・。
                  

         ヴィーナスの髪

                    女神の

                       
                    書かれた言語の読みはいかなるも排除せず、限りなく自由である。
                    しかし、我々はそれを忘れがちだ。

                    知識やプライド、時に嫉妬、賛意さえもが「読み」のポテンシャルを規制し、
                    読む者を自由から遠ざける。

              の言葉は、そんな読解喪失者、リーディングロストを再び自由の領域に誘ってくれる・・・。


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                                                        の足



                  KOI


  
                      美濃の相聞の墨ながしけり   豊口陽子 『睡蓮宮』
 

                     は女神の別称である。
                     浮かんでくるのは、  

                            谷にもみ合う夜の歓喜かな   金子兜太 『暗緑地誌』

                     鯉の位置。墨と夜。相聞と歓喜。

                    何よりも二句に応同するのは、
                    よどみない調べに乗せられた命と愛執への(陽子は静かな、兜太はむきだしな)であろう。  

                    兜太の鯉はカップル(または群れ)だが、陽子の鯉はただ(一個)を感じさせる。
                    オ音が支配的な「美濃の鯉・相聞」の「おおお・。」とずる風情、
                    音感の偏向は形而上の思感を動かし、色の、あるいは純白の鯉は、
                    孤閨を悲しみ物思いに沈むに姿を変える。



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                という古雅な詞と隣り合っている以上、鯉はでもある。

                「美濃の鯉」は「美濃の恋」であると妄想すること、これがだ。
                この自由を伴って句のイメージは流麗に展がってゆく。

                美濃、現在の岐阜県は奈良期に遡るの産地である。
                鯉(恋)は、手漉きの巻紙に「」草書体で身をくねらせる。
                そこに綴られるのは、連綿たる相聞歌が添えられたでなければならず、
                仮名文字の墨は、当然のことながら「く」なくてはならない。
                (無論、そうでなくても良い。自由には縛りがないのだから。)



                                         応挙


                          三美神

                        美神 すなわち愛、美、貞潔・・・・鯉、恋、濃い。

                   
                         女神の言葉はかくも広域な読意をもたらし、
                我々は「」は「」であり「い」でもあったことを知るのである。

                                                                  『女神の言葉』

                                     
                            ディアナ

                                                                                     
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