松下カロ

                              Ⅲ   


                    柄を見てゐる湯冷めかな  岡田由季


     
                    ペイズリ―1



              「の跳梁する時もあれば、の擡頭する時もある。

              ジャン・コクトーは、神戸の埠頭で、

              日本のが、きわめて無造作に、地上に完全なを描くのをみて感動した。・・・」

                                                                花田清輝


                                   眉0


                      の第一句集『』を読む時、


                    手の届く範囲に蟻地獄       由季   
                   
                    満月にとある注意書


                                                      ペイズリ―7



                 神戸のコクトーのように、我々は、詠者が「な円を描く」であることに魅了される。

             飛躍とバランス。さりげないが明晰な語り口。の句は秀逸なである。

       しかし、それはキュートなカーヴを描くでもある。つまり彼女の句はでありでもあるのだが、

                        このことに何のもない。


                              ペイズリ―3


         
         「はむしろの中のきわめて特殊な場合、その短径と長径が等しい場合に過ぎない・・・。」

                                                    花田清輝



                           ペイズリ―11



                  とは幾多のから選抜された一個なのだから。

                 
                                   楕円3



             それでは単なるであるのかと言えば、句は飽くまでも「である」だ。

                 何故なら彼女の言葉にも(と同様に)二つの焦点、

                    さらに言えば多様な群が存在するからである。
 


                                      ペイズリ―12

                                   


              「は、焦点の位置次第で、無限にに近付くこともできれば、に近付くこともできようが、 

             その形がいかに変化しようとも、依然としてである限り、

             それは、めながらり、きながらい、いながらずることを意味する。」

                                                           花田清輝



                              ペイズリ―0



                という形の柔軟で背反的な在り方、αであってαでなく、βであってβでなく、

                  αでもβでもあるという性格は、由季句の特質でもある。


                                   ペイズリ―2


                   百号の絵にせの影映る      由季

                   家持たぬリカちゃんひなたぼこ 


                      リカ
  

             いようでい。いがるい。いていながられている。

              中でも重要なのは「えるもの」と「えぬもの」二点の共現である。

                                それは、作品においてが一致していることを意味する。


                    の小壜のありし朝寝かな     由季 



                                      ペイズリ―9



                 に不可視を忍ばせない。

                         むしろ思い切りよくてている。

                  は決して完璧な(選ばれたとしての)を描こうとしない。

                   そのものを引くしみを知っているからである。

         由季句がにもにもなれるのは、彼女が可視のも不可視のも企むことをせず、

                        言語に対してであり続けるからだ。


                                ペイズリ―6



                  柄を見てゐる湯冷めかな    由季

                  生まれてきたるクリスマス


                                眉1



              は目に見える事物で満ちている。

            だが、実景が生むは、読者の層に、ふとしたのような非在めく幻象を描き出す。

          が重なる一瞬、日常が日常でありながら、そのまま日常であることをさせる。


                    猫の毛の一本し夜の雪         由季



                                               ペイズリ―000


                                                 ペイズリ―8



                ある、対照し合う定点の間では揺れ、
                
                      我々には「見えないか」が見える。

                            その時、はもうしいを描き始めている。

                      
                                           ペイズリ―5

                            

                                                  2014年 「」11月1日 号
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             松下カロ


                                       Ⅱ         


                              つけば男しづかに倒れけり  吉村鞠子


                                       毬1


                    まり


               
                             の 『ユリウス』が一本の道ならば、

                            の第一句集『』には、流れ止まない水が見える。

               水中にはな言葉の四肢が存分に広げられている。


                                           毬0
                      

                  中村の愛弟子という来し方の持ち主である以上、

               の世界にはいつも苑子の面影が立つ。
                     
                                        
                        喪をかかげいま生み落とすのおとし子   苑子

                        の落とし子薄氷の久遠なら          毬子       

                                         
                     たつ
                                                                
                  ならば、言語はという大きな内に安住しているようだがそれは違う。

                                              毬9


                 句にも文字通りの描く放物線のように艶麗な、従って二つの定点が存在する。 
 

                                         楕円2

                           楕円1
                             
 
               一つの点は無論であり、もう一点に居るのは、苑子よりも苑子らしいである。



                           毬10


 
                        来て杉の余命が語られき        苑子

                        つけばしづかに倒れけり       毬子
                    
                                 いて樹を語るが、れ込んでくる。


                                                           毬12


                     思うには(奥底では)のように直截に詠うことをんでいたのではないか。

                     当には苑子よりも苑子的なのだ。

                           を詠う時も、


                                     毬6



                      黄泉に来てまだ梳くは寂しけれ     苑子

                      火祭や天地無用の踊る         毬子

                女身を持つこと自体をしむ風情の。ジャンヌ・ダルク宛ら自らのに火を放つ


                                                          毬8



                   このようなを晩年のはどんなにか頼もしくまた眩しく感じていたことだろう。


                                           毬2
                                                   毬1
                                                    れもん0                                                                                      
 
                  はセクシャルを隠さない俳人だが、彼女が拠ったのは時の前衛の中枢であった。

                            それは俳人の資質に対して男性的に過ぎた。

                   前衛がした暗喩を駆使して体感を詠う困難は、苑子の表現に屈折をもたらす。

               しかし、その屈折こそが言葉に表すことのできなかった身体の深部を言語化する端緒となる。

   
                         わが襤褸りて海を注ぎ出す       苑子

                         砂となり海松色の乳り出す       毬子 
                 

                         一方のは母胎感を触覚で語ることを豪も躊躇しない。

                            自らのの中にという一点を得、

                        今が遣りたいことはが遣りたかったことと重なっている。
                                    
              毬7

                                                  毬3


              先陣に立ったに習いつつ、することなく女身を詠う。

                       『』に隣りあう二句、


                   を浸す水晶あまかりし        毬子
                  
                    さみしさや乳房に飼ふ時間 
 

                     前者は(エクスタス)を、後者は(ソリド)を。

                 言的悦楽は、鳴かない、甘くさみしいの容をしている。


                                 毬2



                      もしも句を部分的と見る評者が在るとすれば、

              彼(多分男性?)は、

               女性の言葉は女性の一片を具象することで女性全域を体現できるであり得ることを知らない。

                の二定点を以って詠まれる句が、

              と本来それに反するものであったを双受する形を成すことも知らない。

                                                     2014年 「」11月1日 号

                                  毬4

               
 



            松下カロ  

                        Ⅰ  


                     みな死んでい風船だけ残る    佐々木貴子



           赤い風船5

              

              の第一句集『』中、どの句にもの文字は遣われていない。


                                ユリウス1

                           赤い風船6
                                      
          
                 と言えばローマの執政カエサルが浮かぶが、
          
                          が何か、よりも、そこにがいないことを重視したい。 

                                          赤い風船2



                   の第一句集『』が浮かぶ。

                   この集も句内に「」の語を持たない。
                     
            題名に冠する以上、名称は集を統べる何物かである筈だが、もそれを明らかにしない。

                        

                                  赤い風船4

           楕円5


                   とは「二つの焦点(定点)からの距離の和が一定となる点の集合による曲線」を謂う。
                   
                       は一つの中心点に侍する従順な図型だが、
     
                           は相対する二つの点の関係性の上に成り立つ可動的ななのだ。



                         100パーセント4



      批評家は、を表現者の在るべき姿に擬えて以下のように述べる。

                  「何故にを描かないのであろうか。
            二点の内、一点だけは見ないふりをし、ばかり描いている連中ばかりだ。
      自分のの周辺が、いかなるを描いているかを示すということは、それほど困難なことであろうか。・・・」
                  

                                      赤い風船3 
 
                                          赤い風船8
          

 
              の周辺に自在なを描くためにある「もう一つの」。
      
              これは句の外に置かれた名称(題名)とよく似ている。
      
              はその定点で出合う。二人の作品は同じ方向を向いている。


               灰色ののかたちを見にゆかん   『
      
               みな死んで赤いだけ残る    『


                     

              彩と、「ゆかん」が持つ、「残る」が負う

                         言葉はび合っているように見える。
                                          赤い風船00
                                      赤い風船000                                                                                                  
                                       
                       
                 加えて両句に在るのは読者の主観を誘いだす広いだ。

         「」も「」も受け手の意識を固定しない。
       
                 の前に立つ鑑賞者のように、読者は「此処に在るのは何か」を考える。さらに、


                  の海は内股にこそ流れける     マサ子                   
             
                  内股と内股ふれてすこし         貴子                     
             
                  かぎりなくの黒い五月かな     マサ子                   
             
                  永遠の夏野を燃やしけり       貴子


       
                    語彙と世界観が通じている。これはであってでない。
 
                    は必ずしもを意識していなかっただろうが、
 
                    彼女が句集後半に辿り着いた場所は、マサ子が嘗て到達した場所に近いからである。


                                                     赤い風船0000
                                                                                                                                          

                     巻頭の、

                    が砂場に生えて人恋し        貴子              
     
            しい質感に始まり、終には、

                    ふってふって人間うすまりぬ          貴子
   
      
               の形而上化に至る『』は、が普遍を宿し、

               に連なるまでの、行と行の過程を示している。

             
                                              赤い風船0

                                                       
      
                『』に楕円がなく『』にユリウスがいないのは、

                     彼女たちののかたちが俳句の定点を捉えつつ、
       
                          俳句を離れたもう一点をも含むを成すことへの自覚のである。


                                                    2014年  「」11月1日 号

                       赤い風船1